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元治元年9月9日(1864年10月9日)

【京】一橋公用人黒川嘉兵衛、越前藩の将軍上洛建議に同意する。
【坂】老中阿部正外、海路着坂。軍艦奉行勝海舟、阿部と面談。
【江】東下中の会津藩公用人野村左兵衛ら、老中に征長総督に一橋慶喜を提案し、顰蹙を買う。
【江】(御陵衛士前史)近藤勇ら四名、将軍進発御供衆の奮発鼓舞&隊士募集のため、江戸到着

☆京都のお天気:晴陰午刻以後陰蒸気類于昨日 (『嵯峨実愛日記』)

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■将軍進発問題
京】元治1年9月9日、一橋用人黒川嘉兵衛は、越前藩士本多修理・島田近江に対し、同藩が江戸に使者を送って将軍上洛建議することついて、一橋慶喜は固より同意であるので大いに然るべきだと述べました。

※征長総督が確定しない中、副将・越前藩主松平茂昭は9月6日に着京(こちら)。翌7日に禁裏守衛総督一橋慶喜・老中稲葉正邦を訪ねると、総督確定・将軍上洛を説いていました(こちら)。8日、越前藩重臣は、会津藩の働きかけもあり、江戸に使者を送って将軍上洛を建議することを決めましたが、その前に慶喜の内意を確認することにしていました(こちら)

同日、大目付永井尚志は、本多修理・島田近江に対し、将軍上洛の準備は13日までに完了し、遠からず出発する見込みだと述べました

<ヒロ>
9月1日、永井は、因幡藩士に対し、江戸から来るはずの大目付・目付の到着が遅れているので江戸の事情がわからないと述べていました(こちら)。その待ち人が、老中阿部正外に先んじて着京し、情報をもたらしたということでしょうか。

でも、将軍が上洛してくるのなら、建議をする必要はないはず。なぜ、黒川は「大いに然るべし」といったのでしょうか・・・。

参考:「征長出陣記(枢密備忘)」『稿本』(綱要DB 9月8日条 No6,7)(2018/5/25)

■征長総督問題
【京】元治1年9月9日?前尾張藩主徳川慶勝は、老中稲葉正邦に使者を送り、病が少しよくなったので、来る15日に出立・上京を内定した旨を知らせました。

参考:元治1年9月11日付藩庁宛(肥後藩留守居役)上田久兵衛書付草稿『幕末京都の政局と朝廷』p25-26

■捕虜取扱い
【京】元治1年9月9日中山忠能は、禁門の変の際の捕虜について、薩摩藩は取扱いは自由にといわれたので返すことを内定したいう説、一方、会津藩は背中に釘をうつなどの拷問で多数を殺したという説を日記に記しました。9月3日には、薩摩が長州の戦死者を丁寧に弔ったという風説も記しています。

参考:中山忠能日記(綱要DB 9月30日条 No115,116)

>老中阿部正外の上京
【坂】元治1年9月9日老中阿部正外が海路着坂しました。

<ヒロ>
阿部は、7月末に将軍の使者として天機を伺うために上京しましたが、一橋慶喜に説得され、将軍急速上洛・征長指揮を促すために、会津藩公用人野村左兵衛らを伴って、海路大坂より帰府しました(こちら)。しかし、24日に再度上京を命じられ、30日に品川出港していました(こちら)。阿部の上京について、会津藩江戸家老上田一学は9月4日付の京都への手紙の中で、表向きは外国の処置についての言上だが、その実は開港の見込みであると記しています(こちら)


同日夕、軍艦奉行勝海舟は、阿部正外に閲し、将軍上洛・横浜鎖港使節の内情についてききました。

〇勝海舟が日記に認めた内容(てきとう訳)
・将軍進発については、将軍自身の「御英意」で、すぐに発表されたので、異議のある有司は口を閉ざした。
・フランスから書簡がきたが、その内容は<横浜鎖港使節が我国を訪問しただけで去るのは君命を辱めるのではないか。事の成否は置いて論じず、一旦、君命を諸国に告げるという目的だったと聞くのに、我国のみで帰国というのは意を解せない。また、使節は「私に伐長の儀我国と共にせんといふ定約を成」した。我等はこれは道を外れると考え、敢て用いなかった。もしこれを用いれば、貴国に大害が生じるだろう。どういうわけか>というもので、(幕府は)<この定約は、使節が私的に取り計らったもので、政府は関知しない>と返答。

<ヒロ>
勝は、8月6日、海路帰府する阿部と、大坂で会っていました。今回、阿部は海軍操練所の船を借りて上坂しており、勝海舟はまたまた上坂して、阿部の宿を訪ねます。将軍進発が遅れている事情が話題になったと思うのですが、日記(9日条)には書かれていなくて残念です。

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』,p165(2018/5/25)

>江戸の内情(by 在府会津藩)
【江】元治1年9月9日、将軍上洛周旋のため、江戸に到着して1か月になった会津藩京都公用人野村左兵衛・公用方広沢富次郎は、老中本庄宗秀・老中格松前崇広にようやく会うことができました。

〇会見までの経緯と概要(9月13日付(会津藩江戸家老)上田一学書簡(※1)より、てきとう訳)
>経緯
当月5日、柴秀治(=会津藩京都公用方(※2))に登城するよう大目付衆から御達しがあり、登城したところ、御老中がお会いになった次第は別帳の通りである。しかし、御老中との会見については、兼てから水野様(=首席老中水野忠精)へ度々罷り出て富岡平角へ厳しく論じ置いた結果、極内々にお会いになることになったのに、秀治一人にお会いになるのは甚だ不都合であるので、水野様へ罷り出、富岡へ掛け合ったところ、行き違いがあったとの返書があった。9日お会いになるとのことで、私(※3)、富次郎(=広沢富次郎(※4)、(柏崎)才一(=会津藩江戸留守居)、桑名様の小寺・秋山が罷り出たところ、伯耆守様(=老中本庄宗秀)・伊豆守様(=老中格松前崇広)(※5)がお会いになったので、これまでの委細を申し上げた。
(※1)「会津藩庁記録」(『稿本』)。『京都守護職始末』では9月12日付江戸重臣書簡とされている。
(※2) 柴秀治は、8月24日、慶喜の使者(目付小出五郎左衛門)に随行し、所司代の使者(森弥一左衛門)と海路着府。目的は、@将軍の「急速」進発、A幕府による外国艦隊の長州退去説得の周旋。しかし、老中には会えないでいた(こちら)
(※3) 『京都守護職始末』の割註によれば野村左兵衛。野村は、将軍急速上洛・征長指揮周旋のため、老中阿部正外に同行して海路東下(こちら)。8月6日に着府したが、老中には会えないでいた。
(※4)広沢は会津藩京都公用方。野村に同行して東下中。
(※5)『京都守護職始末』では「和泉守様」(=老中水野忠精)とされている。

>将軍進発
野村は、本庄・松前に将軍進発を促しましたが、もっともだというだけで、会見は形式的なものに終わりました。
(老中に)御進発の件などを段々申し上げたところ、ごもっともとは言われるが「御心に入候様子」はなく、「御式一と通の御逢」だと思われる。その際言われたのは、「二百年来泰平打続、武備弛緩」のため、まず軍装御上覧(※6)という運びになったので、御進発期限は明確に言えないが、「面々心に占ひ候はヽ」大方分るだろうということだったので、近づいていると存じ奉る。
(※6)将軍徳川家茂は、9月6日、布衣以上勤仕並寄合・部屋住等の武芸を上覧。

>征長総督
また、征長総督を辞退している徳川慶勝の代わりに一橋慶喜を推したところ、老中(本庄・松前)は「腹立」の様子でした。

尾州先様(=前尾張藩主徳川慶勝)が御総督を御請けにならぬ様子なので、「一橋様御相当之義」を申し上げたが、「御撰挙筋私共より申上候義御腹立之御様子」だった。そこで、御名(=容保)様から言われた機密の次第を申し上げると「御落意」になり、なお御評議をされると言われた。ただし、尾州先様の御病気の状態によって京都までは出張される趣、委細は(小森)久太郎が京都へ申し上げるはずだと(※7)、左兵衛が申し出、御老中様より御名(=容保)様への御書を御渡しになった由。
※7小森久太郎は会津藩京都公用人。8月下旬、会津・桑名・肥後藩の協議の結果、徳川慶勝に征長総督の早期就任、固辞の場合は一橋慶喜の後任指名を促すために、桑名藩士とともに名古屋へ出張。8月27日(28日)、慶勝は総督の後任に慶喜を推す老中宛の直書を認め、29日に会津・桑名藩士が江戸に向けて名古屋を出立(こちら)。ただし、小森は9月6日に中川宮を訪ねたことが同宮の日記に記されているので、江戸には向かわず京都に戻って首尾を報告した可能性あり。

<ヒロ>
う〜ん、ついに、慶喜の征長総督案を持ち出して、案の定、幕閣の顰蹙を買ってしまいました・・・。

参考:「会津藩庁記録」『稿本』(綱要DB)『京都守護職始末』p111-112、『朝彦親王日記』一p68(2018/5/25)
関連:テーマ別■第一次幕長戦(元治1) ■一橋慶喜の評判/嫌疑 ■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

>御陵衛士前史
【江】元治1年9月9日、新選組近藤勇・永倉新八・武田観柳斎・尾形俊太郎の四名が、将軍進発の御共衆の「奮発」を「鼓舞誘引」するため、また隊士を募集するために、江戸に到着しました

京都において、会津・桑名・その他御譜代列藩が、公方様の一日も早い御進発のため、談合の上、各藩から御使者を差立て、公辺へ建白した儀は、先日の報告通りであるが、公辺で近々に御選びになった新徴組のうち、京都へ差し立てた新撰組と唱え申す浪士のうち、四人が当月九日に到着した。彼等の存意は御進発の御供衆に「知恩」の人(=恩を受けた人物)がおり、これらの人々がいよいよ御奮発なされるよう「鼓舞誘引之内存」で下ってきた者である由。(肥後藩士森井惣四郎の探索書より、てきとう訳)

※東下した近藤らの隊士募集に応じて、後に御陵衛士となった伊東甲子太郎らが京都にやってきます。伊東を勧誘した藤堂平助(元々伊東の弟子)は、近藤らより先に東下したとも、同時期に東下したともいいます。

<ヒロ>
永倉新八が明治になって記した回想録(「浪士文久報国記事」)にも、会津藩留守居役を訪ねた後、榊原健吉・中条金之助の二人に面会したように記されています。中条は浪士組取締を務めていたので、あてにしていた「知恩」の人というのは彼のことかもしれません。榊原についてはどうなんでしょうか。「報国記事」は明かに新選組(に属していた自分)の名誉回復を目的に書かれていて、東下に関する一連の話の中にも、上洛周旋のために東下中の西郷隆盛(実際は在京)と出会ったというありえない話(嘘というか法螺というか)が含まれているので、注意は必要です。

浪士組のうち東帰したものが新徴組となり、残留浪士組が後に新選組を名乗ったわけなのですが、残留浪士組が京都に残った主な理由は摂海攘夷でした。この頃、摂海には外国艦が姿を見せていて、西郷隆盛も大久保利通への書簡で、今後もやってくる恐れ(兵庫開港を迫るため)を指摘しているくらいでしたこちら。摂海攘夷はどうなったんだろうとも思います。ただ、この点については「報国記事」に面白い記述があります。近藤らは榊原健吉・中条金之助と会って攘夷と長州処分について議論したというんです。榊原・中条が長州はそのままにして攘夷を先にすべきというのに対し、近藤は、国内問題があるのに攘夷をするのは考え違いで、「長州方」(=征長)が先だと主張したと書かれています。

参考:森井惣四郎聞取書(9月13日条)/肥後藩国事史料『稿本』(綱要DB 9月11日条 No72)『新選組日誌』下p261、『新選組戦場日記』p122-125(2018/5/25)

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